震災(あのひ)をこえて



熊本震災支援!~古唐津で一服~In唐津やきもん祭②


それこそ一期一会。ほとんどが初めての方々と…


お客さまに好きな器を選んでいただき、一服差し上げました…

   詰めるだけのお茶碗を旅行バッグに詰め込み、実際に手に取って唐津の器で召し上がっていただこうという企画でした。古唐津の特徴は、重心が下のほうにあり、手取りが掌に心地よく、お茶がおいしくいただけるところですが、やはり手に取っていただかなければわかりません。
 隣の有田でも同時期に陶器市があり、やってきた歴史も違うのですが、有田には10万人ともいわれる人が集まるそうです…。


京都で知り合って、鳥栖に転勤となった茶友も水屋の応援に(^^♪

 しかし、有田焼の磁器でお抹茶というのはあまり合わないようで、硬い感じがして、ほっこりといただく気分にはなれません。やはり唐津などの陶器がお抹茶には合うようです。とくに気取らない唐津は飽きがこなくて人気があります…。


常に和やかで、笑いの絶えないお席となりました…^^/

 唐津の若い陶工さんも古い唐津にふれる機会が少ないらしく、いろいろと手に取っていただき、勉強になったと喜んでくださいました。
 唐津やきもん祭が五年前に始まったひとつの大きな目的が、「唐津に美術館を…!」ということで、せっかく唐津焼という人気のある焼き物があるのに、箱モノが今までなかったことに驚きでした。
 他のところでは箱モノを先に作ってみたけど、展示するものがあまりなくて困っているというのに…。
 このたびは、駅前の図書館に唐津のぐい?みだけを50選という、おそらく初めての企画に多くの人が訪れました。一度来てみると、魚は美味しいし、景色は最高!見どころ満載…。美術館ができると愛好家が焼き物だけの地ではないことに驚かれることだと思います。陶工さんの学び舎ともなります…。


西日本新聞の記者さんが取材に来てくださいました^^

熊本震災支援!~古唐津で一服~In唐津やきもん祭


今はさびれてしまった商店街のシャッターを開け、花や器を飾りました…

 4月30日から5月2日までの3日間、佐賀県唐津市の唐津やきもん祭にて、熊本地震の義捐茶会をさせていただきました…。

 元々、唐津の陶工さんに唐津まつりに誘われ、1日は伺おうと思っておりましたところ、熊本地震が起こりました。
 唐津やきもん祭では、さびれてシャッター通りとなってしまった商店街のシャッターを、陶工さんたちが開けて大掃除をし、祭りの1週間をギャラリーにし、商店街を賑やかにするという画期的な取り組みをされております。


お花は大山蓮華。陶工さんのお母さまが届けてくださいました^^v


唐津の銘菓、松露饅頭。日本三大松原の一つ、虹ノ松原の松露から

 懇意にしていただいている陶工さんに相談したところ、ギャラリー奥の座敷を大掃除し、お茶が点てられるようにしてくださいました。
 ご自分たちのギャラリーのことは二の次にして、水屋やお客さまがお席に入られる段取り、私の休息時間など、すべてを手配してくださり、私はただお茶を点て、お客さまと膝をつき合わせて、震災や唐津焼、お茶や仏教のお話など、お客さまのおもてなしに集中することができました。


陶工さんたちです…♪本当にお世話になりました…

 急きょお願いをした企画ではありましたが、宣伝をしたり、差し入れをしていただいたり、祭りの実行委員長さまをはじめ、唐津の方々の温かさにふれることができた二泊三日となりました…。

阪神淡路・東日本二つの大震災法要をお勤めいたしました


東日本にお届けする神戸のお菓子を、ご参加の皆さまがお持ちくださいました^^


拙寺保育園の保育士さんたちも参加してくれました~♪


ご門徒さん・保育士OBや息子たち…左が長男です^^


地域のお母さんやご門徒さん・園の職員などが入り混じって交流の場に…^^v


共命之鳥(ぐみょうしちょう)のピーちゃんとパーちゃんのお手紙を添えて。


ピーちゃんとパーちゃんの折り紙を貼り、段ボール9箱にお菓子を詰めました。


陶芸家でもあり、八重山民謡の唄い手でもある永江俊昭さんのミニライブ♪

 我が家では、「震災を知らない被災者」と呼ばれる長男が、二十歳になった昨年の10月に得度をし、僧侶にならせていただきました。

 阪神淡路大震災の折、私たち夫婦は二階から庭に落ち、その上に落ちてきた大屋根の下敷きとなりました。その時に長男は、まだ坊守(ぼうもり・お寺の奥さんをこう呼びます…嫁さんです^^)のお腹の中で妊娠4か月でしたので、一緒にガレキの下敷きになりながら、本人は震災を知らないので、「震災を知らない被災者」となります…。

 それから20年がたち、仏法を学ぶべく僧侶になってくれました。小学校2年生から法要に出勤し、お盆参りなどを通じて、ご門徒さんに可愛がっていただいたおかげと、感謝しております^^

 職業僧侶ではなく、仏さまのお慈悲を学び、人々の苦しみに少しでも寄り添う僧侶となってほしいと願うばかりです…。

震災(あのひ)をこえて⑮

 20年前の阪神淡路大震災で、お寺が全壊し、昨年、再建を果たされた兵庫区の円融寺さん…。

お勤めの様子を、感激の中、写真を撮らせていただきました…^^V

 20年ぶりの親鸞聖人のご法要、報恩講を勤められました…。

 法話の依頼をいただいたのですが、久しぶりに緊張いたしました。
 円融寺のご住職たちと、震災後、同じく全壊した拙寺の庭あとに建てた仮設住宅で、被災の傷を癒すように集まり、うだうだと語り合っていた日々を昨日のように思い出しました…。

 僕たちが、お聴聞の場に座ることから始めよう…と、「法話と炊き出しの会」を活動の中心に据えたことでありました。
 振り返りますと、復興の過程で、その都度変化しながら舞い降りてくる苦しみや悲しみを乗り越える力となったのは、やはり仏教、とりわけ私たちには親鸞さまの教えであったなぁ…と振り返ることです。

 仏教の教えは、決して理屈だけではないのですが、少しでも元気な間に、少しでも若くて理解力のある時に聞かせていただくことが、大事だったなぁ、と、20年経った今、あらためて思うことです。

 しかし、いくつになっても手遅れということはありませんよ!!!

 過去に戻れない私たちにとって、一番若いときは今なんですから…。

震災(あのひ)をこえて⑭

西本願寺仙台別院の中に、ボランティアセンターがあります。長男と銭湯に…。


 わずか一泊二日でありますが、長男と仙台に伺いました…。

 平素は、ご門徒さんやお茶会法座に来てくださるお茶の先生方、地域の方々のご支援をいただき、「東日本に神戸のお菓子を送ろう」活動で、お菓子を送らせていただいてますが…

共命之鳥(ぐみょうしちょう)のピーちゃんパーちゃんの折り紙を添えてお菓子を…。

いつもご協力ありがとうございます(^0^)/ 

 このたびは、それらのお菓子を現地で使っていただいている、お茶会活動に参加させていただきました。
 東北ボランティアセンターの中心的な活動として、定期的に仮設住宅を訪ねて、お茶会活動を続けてくださっているのですが、私たちはその中で、仙台市の南にある名取市の美田園(みたぞの)地区と入生(いりう)地区の仮設住宅に伺いました。

 これまでのボランティアセンターの皆さまの継続した活動のおかげで、初めての私たちもスムーズに参加させていただくことができました。長男などは、「高校生なのによく来てくれた…!」と励ましの言葉をいただいておりました。

 「お抹茶はないの…?」との声が、仮設住宅の方々から出ました。「西本願寺さんが来てくれる時は、お抹茶がいただけるから楽しみ~♪」という言葉に、代表も「だれかお抹茶点てられる…?」と。

イメージ画像です…。 

 お茶をしててよかったなぁ~と思いました…。どちらの仮設住宅でも、ほぼ、ひと通りの方々にお抹茶を点てさせていただくことができて、何よりでした。

 大きな悩み、複雑な問題を抱えておられながら、逆に私たちを明るく迎えてくださいました…。

 お話が進むにつれ、私が僧侶であることや、阪神淡路大震災の被災者であることが、話題になると、仏事についての質問や、震災のことが話題になったりもしました。
 あくまでも、言葉には気を付けてお話をさせていただかなくてはならないですが、私にもさせていただくことがあることを感じました…。

細々ではありますが、皆さまのご協力をいただきながら、出来ることをさせていただきたいと、あらためて思わせていただくご縁でありました。

 最後になりましたが、このたびは、ここ最近二回のお茶会法座でいただいた支援金と、8月16日の拙寺でのお盆法要の時に、お参りいただいたご門徒さんからのカンパを、活動費の一部に充てさせていただきました。まことにありがとうございました…。

震災(あのひ)をこえて⑬

 かつて経験したことのない、夏の暑さが続いております…。

 今年のお盆参りは、熱中症で倒れないかと、身の危険を感じたことでありました。

 しかし、暑さは変わらずとも、庭では菊の花がつぼみをふくらませ、朝晩は、秋の虫の声が聞こえるようになってまいりました…。四季を生きる私たちは、厳しい夏もやがて、穏やかな秋へと移行していくことを、体で覚えているようです。

 その経験が、苦しいことも、悲しいことも、いつまでも続かず、いつか和らいでいく、と耐える力を育んでくれているように思うのです…。

 明日から東日本に赴き、仮設住宅などに伺い、被災された方々のお声を聴かせていただきに参ります。
 阪神淡路大震災からの18年の経験で、少しずつ気持ちも環境も移り変わり、明けない夜はないことを、さり気なくお伝えできれば…との思いもありますが、その前に、言葉や態度で不快な思いを与えないように、十分な配慮を…と、身を引き締めております。

震災法要と支援活動


東日本大震災当時の支援活動の様子。お手伝いありがとうございました^^/

 年明けから、震災関連や、親鸞聖人のご法要の尊いご縁に遇わせていただいて、気がつけばもう月末に…!!

 ホームページの更新もままならずですが、我慢強く更新を待ってくださっている(汗)少数の読者のみなさん!見捨てないでくださいね^^;

 今月の27日(日)に、阪神淡路・東日本の大震災の追悼法要と支援活動~神戸のお菓子を東日本に送ろう~を行います。
 お勤めと住職の法話に続いて、いつものように、一つの体に二羽の鳥が命を共にしている共命之鳥(ぐみょうしちょう)の折り紙にお手紙を添えて、お菓子に貼りつけて、東日本に送らせていただきます。


共命之鳥(ぐみょうしちょう)の折り紙です^^V

 共命之鳥が、一つの体に命を共にしている姿は、阪神淡路大震災を経験した私たちと、東日本大震災で悲しみに遇われた皆さまが、この同じ日本で、同じ地球で命を共にしているお互いであり、震災によって、大きな苦しみや悲しみを経験したお互い…という想いを起こさせてくれるようです…。


あの山のように積まれていたガレキは、今はどうなっているのだろう…?

 お時間のあるお方は、神戸のお菓子を一つ携えて、気軽にお越しください…。



日 時   平成25年1月27日(日)  午後2時~4時ごろまで

場 所   光明寺2階本堂 神戸市兵庫区中道通9-1-17
                 TEL078-575-3910
お 話   住職
以上

震災(あのひ)をこえて⑫

 まだまだ暑い日が続いております…。

 阪神淡路大震災から17回目のお盆が終わりました。東日本の震災からは2回目となりますね…。
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 家の整理をしておりましたら、8年前に、たまたま出くわしたセミの羽化の写真が出てまいりました。
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 夏のある日、帰りが遅くなり、日付が変わろうとしている時刻に家路に着きました。庭を歩いていると、敷きつめたレンガの道の上を何かがモゾモゾ歩いているのです。

 よく見るとセミの幼虫でした。羽化をするための止まり木を一生懸命探しているところだったようです。
 セミのぬけがらは毎年いやというほど見るのですが、幼虫に出くわすことは滅多にありませんでしたので、私はファーブルにでもなった気分で、幼虫を追いかけ観察しておりました…。
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 長い時間をかけて、幼虫はようやく木に登り、羽化の準備が整ったところで、私はしっかりと場所を確認し、急いで家に入り、カメラを持って、当時小学校3年生だった息子をたたき起こしました。
 起こされた息子はとても機嫌が悪かったのですが、私はどうしてもセミの羽化を見せたかったのです…。
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 私がセミの羽化に立ち会うのは、人生で2回目のことでした。

 1回目は30年ほど前のことで、おそらくその当時の息子ぐらいの年であったと記憶しています。今は亡き父が、夜になっては庭の中に入り、やっとの思いで羽化するセミを見つけてくれたのです。

 懐中電灯を持って、うれしそうに説明する父の姿がそこにありました。

 自然の中に身をおくのが好きで、子どもの喜ぶ顔を見るのが好きな父でした…。

 少しずつ羽化をしていくセミの様子を見つめながら、懐かしく父の姿を思い出していたのです…。 
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 たたき起こされて不機嫌だった息子も、長い時間をかけて少しずつ羽化をするセミの姿を前に自然と興味がわき、引き込まれているようでした。

 「お父さん、地面に落ちたらどうなるの?」

 「死んでしまうやろな」

 「ふーん…」。

 息子なりに一生懸命セミを応援しているようでした。私はその時、息子の出産に立ち会った時のことを思い出していました。
 陣痛が始まってから丸一日以上かかって生まれてきた息子と、セミが一瞬重なったのです…。
 気がついたら息子が生まれてきた時の様子を話していました。
 「お前もこのセミみたいに一生懸命頑張って生まれてきたんやで…」と。息子は眠そうな目をこすりながら、黙って聞いていました…。
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 お釈迦さまは、人間の基本的な苦しみを四苦と説かれました。
 生(しょう)・老・病・死の4つの苦しみです…。その中で老・病・死の3つが、苦しみであることは理解しやすいのですが、生まれること(生)が苦しみであるということは、自分では覚えていないことなので、実に解りづらいことです。

 しかし、息子の誕生の姿、そしてセミの羽化に出遇ってみて、いのちを授かるということが、大きな苦しみを乗り越えた上での尊い姿であることを教えられるのです…。


 17年前、震災で亡くなった姉と姪の遺体を、ガレキからとり戻すことが出来たのは、2日目の夕方でした…。

 役所に二人の死亡届を出しに行った義兄を、私たちは寒さと地震の恐怖に震えながら、暗い面持ちで待っていました…。
 そんな中、長い時間かかって帰って来た義兄が、以外に明るい表情で帰って来て、次のようなことを言ったのです。

 「役所も避難している人がいっぱいで、とても時間がかかったが、その間に2組の親御さんが、赤ちゃんの出生届を出しにきたよ…!こんな大変な時にも赤ちゃんが無事に生まれたんやなぁ!」

 どこの誰だか分りません…、しかしその時、一瞬ではありましたが、家族みんなの顔が明るくなり、和んだことを忘れることが出来ません…。

 「大変な中を、大きな悲しみや苦しみが渦巻く中を、生まれてきたんやなぁ…」

 その6ヶ月後に、息子もいのちを授かりました…。

 あの夏の日、セミを通じて、教科書では学べない大切なものを息子と共有できたことは、一生忘れることが出来ない思い出の一つとなっています…。

震災(あのひ)をこえて⑪

 体調を崩して入院となり、またまた更新が途絶えてしまいました^^;


ベッドからの景色です。

 12月、1月、2月と扁桃腺の炎症による高熱が続き、扁桃腺を摘出することになりました。

 しかし、保育園の卒園・入園式とPTAの会長をしている小学校の卒業・入学式が控えているので、それが終わってからの入院ということで、小学校の入学式が終わって、そのまま入院、翌日手術となりました…。

 入院した日に、やれやれと思い、ここ2~3週間のことを思い起こしておりました…。

 小学校の卒業式で、6年生が証書をもらう前に、一言、将来の夢を大きな声で言ってくれるのですが、その中で、「公務員になりたいです!」という男の子が二人いたのです。

 私たちの小学生時代には考えられなかったのですが、実はここ数年の間は毎年のように、公務員になりたい!という夢を語る卒業生がいるのです…。


私の母校でもあります^0^/ 94回にもなるんですね~。

 しかし去年までは、公務員希望の生徒の理由は、大体、安定した生活をしたいということだったのですが、今年の二人は、「国のために働きたい!」、「地域に貢献したい!」と、それぞれ理由を言ってくれたのでした。

 おそらく、昨年の東日本大震災のことがあったり、官僚の天下りのことがテレビで連日のように報道されたりする中で、子どもたちなりにいろんなことを考えてくれている、ということなのでしょう。

 そのほかの子どもたちの夢も含めて、とても感動的な卒業式でした…。

震災(あのひ)をこえて⑩

 阪神淡路大震災から17年の今年の1月17日に、一通の手紙がわが家に届きました…。

 知らない名前、しかも途中までしか書かれていない住所でよく届いたなぁ~と思いながら、封を開けました。

 手紙をくださったのは、60年近く前、母と大学の同級生だったというご婦人からでした。

 昨年の1.17の早朝に行った、拙寺の震災のイベントが新聞の記事になりました。
記事は毎日新聞のHPhttp://mainichi.jp/photo/graph/20110117/13.htmlで…。

 1月17日の毎日新聞の夕刊に掲載された私の顔写真を偶然に見て、「この顔と名前は、大学時代の友人にそっくり!きっとその息子さんに違いない!!生きていて欲しい…」と、1年間、昔の記憶をたどり、いろいろと消息をたずねてくださり、お手紙を出してくださったのでした。

 うれしいお便りでした。

 もうすぐ1.17をご縁に56年ぶりの再会がありそうです…。

震災(あのひ)をこえて⑨の2

 3月11日前後に続いたお葬式の中で、89歳で亡くなられたおばあさまがありました。

 おばあさまは、17年前、阪神淡路大震災で娘さんとお孫さんを亡くされました。

 それからのご縁で、お寺によくお参りくださいました。あまりお体が丈夫ではなかったのですが、手すりを頼りに2階の本堂まで休みやすみ上がってこられるお姿が、印象に残っています…。

 ご縁があった時すでに、ご高齢で体調もすぐれず、ご本山で生前に法名をいただかれることはなかったので、お葬式の時につけさせていただきました。
 その折に、ご遺族に相談し、一栄(かずえ)さんというお名前をそのまま使い、釋一栄(しゃく・いちえい)とつけさせていただくお話をいたしました。

 ご遺族がおっしゃるには、「母は一栄という名前は、兄弟で一番栄えたわけではないので、私は名前負けしてしまった…と言って、一時、加津恵という他の字を使っていました」という話でした。

 控えめなおばあさまらしいお話です…。

 しかし、経済的に栄えたかどうかは分かりませんが、仏さまに手を合わされる生活を持っておられたこと自体、おばあさまは、豊かな人生を歩まれたのでは?と私は思うのです。

 「一宗の繁昌と申すは、人のおほくあつまり、威のおほきなることにてはなく候ふ。一人なりとも、人の信をとるが、一宗の繁昌に候ふ」(一宗派が栄えるということは、人が多くあつまって、勢力が大きくなることではない。たとえ一人でも仏さまのお心をいただくお方が出られることこそが、一宗が栄えるということである)

 という蓮如上人のお言葉が、身にしみることです…。


 そのお話をさせていただき、もちろん、法名は一栄とつけさせていただきました。

震災(あのひ)をこえて⑨の1


枯れるのを待たずに、次の瞬間落ちるかも知れない椿の花…。

 今日は3月11日。東日本大震災から早くも1年…。

 私ごとですが、体調がすぐれず、寝たり起きたりして周りに迷惑をかけているのですが、人のいのちは待ったなしで、ご門徒さんのお葬式が続いております…。

 震災から1年のこの日、椿の花のごとく、あっという間にこの世を駆け抜けたいのちがありました。

 その人は、昨年の東日本大震災の日に、体調の異変に気づかれました。

 と、同時に、震災支援を始められました…。


プロデュ-サ-として、震災遺児支援のためのCDを制作されました…。

 “明日の笑顔”という素敵な歌のCDを、仲間たちと制作されました^0^/

 “悲しい日々は/いつまでも続かないから/今はあきらめないで/流した涙/いつの日か/笑顔に変わるから”♪♪♪

 ↑さびの部分です^^元気がもらえる♪歌声と歌詞です♪

 阪神淡路大震災の後も、ひょいとお寺をのぞいてくださることがあり、「ボランティアするのに、ダンボールいるでしょ!」とたくさんのダンボールを届けてくださったり、私のお経を聞いて、西洋の音楽と東洋の音楽の違いを話してくださったり、コンサートのチケットを取ってくださったり、いろんな音楽を紹介してくださったり…。

 思い出は尽きません。

 治療を続けながら、2月初めまで仕事を尽くされ、体調の異変に気づかれた1年後の今日、3月11日に逝去されました…。

震災(あのひ)をこえて⑧の2

震災法要終了後、ご参加の皆さまに、東日本の支援活動をお手伝いいただきました。


近くのお寺のご門徒さんもたくさんお手伝いくださり、ありがとうございました^^/


拙寺の婦人会の皆さんです。いつもありがとうございます(~。~)

 いま、私たちの仲間が、西本願寺仙台別院内で、東北教区災害ボランティアセンターとして活動を行っています。

 そのなかで、地域支援活動として、お茶会活動をしておられます。

 仮設住宅の集会所において地元自治会主催の元、お茶会をされているようです。

 今回はそのお茶会活動に、神戸のお菓子を使ってもらおう!!ということで、たくさんの方々から美味しい神戸のお菓子をご協力いただきました。

  ありがとうございました^0^/


向かいの小学校のPTAのお母さん方も来てくれましたm(_)m


異世代交流もあったようで…^^; 


ピーちゃんとパーちゃんの折り紙とお手紙をお菓子に添えて…。

 中古ではありますが、活動に使っていただく軽自動車を1台お送りしたのですが、その自動車いっぱいのお菓子が集まりました(お菓子の写真を取り損ねましたが…;)。

 届いたお菓子は、すぐに活動に活かしていただいたようで、ボランティアセンターの活動者ブログに紹介いただいております。
http://otera-vc.jimdo.com/

 ご参加の皆さま、お菓子をお届けくださった皆さま、本当にありがとうございました。

震災(あのひ)をこえて⑧の1

 1月22日(日)に、阪神淡路大震災と東日本大震災で亡くなられた方々の追悼法要をおつとめいたしました。

 拙寺のご門徒・親族など合わせて21名が17年前の震災で亡くなりました…。

 お寺は神戸大空襲で焼け、戦後移転している関係で、ご門徒さんは周りにほとんどなく、神戸市とその近郊に散らばっておられるので、震災で亡くなられたご門徒さんも長田区・兵庫区・中央区・灘区とあちらこちらでありました。

 お寺のある中道通で70名が亡くなられたと記憶しておりますが、近辺の地名などを考えてみると、水木(その昔、ゲゲゲの水木しげるが住んでいたこともあり、地名からペンネームをつけられたと聞いています)・上沢・下沢・入江・皿池・川池・湊川など、水に関する地名が多く、池などが多い湿地帯であったようです。

 当然、地盤が弱いところだったのでしょう。

 数年前、全国の市町村合併が相次ぎました。
 そのことの良し悪しは別にして、その際に多くの地名が消えていったことでしょう。

 地名としては消えてしまったとしても、その土地の昔からの性質や風土・文化などをその名が表しているに違いないと思うのです。

 むかしここは○○とよばれたところ…。

 そんな記録はどこかで残してほしいような気がいたします。

震災(あのひ)をこえて⑦

 今月16日で親鸞聖人750回大遠忌法要が終わります…。

 昨年4月からの長期間の法要でしたが、3月に東日本大震災が起こりましたので、いろんな想いの中で勤められた法要でありました。

 私たちは、6月14日に、ご本山にバスで参拝をいたしました。満堂の御影堂(ごえいどう・親鸞聖人のお像をご安置したお堂です)で、見たこともないお荘厳(お花やおろうそくなどの飾りのことです)の姿に、50年に一度の法要に出遇わせていただいた喜びが湧きあがってまいりました…。


おろうそくがたくさん(・0・/)

 しかし、一番感激したのは、お勤めの後のご門主さまのお言葉でした(~・~)

 ご門主さまはお言葉の冒頭で、こうおっしゃられました。

 「東日本大震災が始まって、3ヶ月が経ちました…」と。

 普通なら、「東日本大震災が起こって、3ヶ月が経ちました」と表現するところを、「始まって」とおっしゃられました。
 おそらくそこには、被災された方々の悲しみ、苦しみはまだ始まったばかりで、私たちの本願寺教団は、少しでも長くその悲しみに、苦しみに寄り添っていくことができる教団になっていきたい!そういう一人ひとりでありたい!!

そんな願いを込めてくださったお言葉だったのではないか?と聞かせていただいたことでした。

思い出深い大遠忌法要参拝となりました…。

震災(あのひ)をこえて⑥の6

 づんだ餅を買い込んだ私たちは、仙台別院に差し入れをし、ご挨拶をして失礼いたしました。


仙台別院の本堂です。中は伝統的な本堂の作りで、外観はモダンな感じです^^

 地元のボランティアの方に、近くに温泉があることを聞き、二日ぶりにお風呂に入り、足裏マッサージもしてもらい、東京からの運転の疲れ(ボランティアは、休み休み・だましダマシやっておりまして、息子らの足手まといになっておりましたので、疲れるほど力を出し切れませんでした^^;体鍛えて行かないとアカン!と痛感いたしました)をとりました。マッサージが気持ち良くなる前に爆睡しておりましたが…(笑)


その後、みんなでソフトクリームをいただきました。食べてばっかり…(-・-)

 すっかり元気になり、いや、なったような気になり、再び東京へ車を走らせました…。

 息子たちの要望で、最終日は秋葉原へ…。萌え~なる世界でした。
 仙台買い物応援ツアーなどと調子に乗り、しかも当時、神戸では売り切れになっていたものが秋葉原には売るほど置いてあり、三男にねだられ「よう働いた!」と大盤振る舞いし、気がつけば、神戸に帰ることができないくらい使いすぎておりました(‐・‐;)

 「計画性がない…どうすんのよ!」と嫁さんに愚痴られたその時、高校に入学したばかりの長男が、「僕、入学祝いひそかに持って来たで」と、なんとも頼もしいお言葉(¥:¥)
 「お父さん、ほんまに返してよ…」との疑いのまなざしに、いつもの2倍の愛想を振りまきながら、なんとか神戸に帰ってまいりました^^

 出来るだけ長い期間、微力ながら支援をさせていただきたいと思い、今後、必要な物資などを聞いて帰りました。先日、炊き出しの具材となるジャガイモや玉ねぎを送らせていただこうとカンパを募り、いざ購入する前に念のためと思って、仙台別院にお電話させていただくと、「今は、仮設住宅の入居が始まり、防虫剤や消臭剤、デオドラントスプレーなどがありがたいです」ということでした。いやー?してみてよかったです(へ・へ;)

 阪神淡路の震災の時もそうでしたが、地域によってどうしても差が出てきますが、少しずつ、被災地の様子も変化してきているんだなぁ~と感じました(~:~)

 少しでも東日本のお力になれるように、神戸の人たちの復興への思いが込められたカンパが無駄にならないように、現地にその都度お尋ねをしながら、必要なものを必要な時に届けられるように工夫していきたいと考えております。

 ご支援いただきました皆さま、ありがとうございます。今後ともよろしくお願いいたします…。

震災(あのひ)をこえて⑥の5

 次のお店は、お茶の井ケ田、喜久水庵です。


新茶まつりの最中でした(へ・へ)


お茶だけでなく、お茶受けの柏餅も…(”・”)


中のお味噌のあんもサイコーでした^^お茶とぴったりです。

 いろんな種類のお茶や茶器類、お茶にあうお菓子など、手広くやっておられました。
 しかしやはり、本命のお茶の味が気になるところで、買い物応援ツアー中ということもあって、一番良いお茶を買って帰りました^^;


まずは、一番摘みの新茶でーす

新茶独自の香りと色。とてもさわやかな美味しさでした。


祥瑞という銘の玉露です(=・=;)

玉露は、茶葉をかなり多めに水出しで、トロトロの甘いのが好きです(・*・)


お抹茶はお濃茶用の蓬莱の鶴という銘のものを…^^

お濃茶用のお抹茶をぜいたくにお薄でいただきました(?・?)うまいっ!!

 仙台応援買い物ツアーということで、贅沢をお許しください…^0^

 神戸に帰ってからは、美味しいお茶三昧です。いずれ光明寺のお茶会法座にも使わせていただこうと思っております…。

震災(あのひ)をこえて⑥の4

 東日本2日目は、今後のための視察と、がんばって営業を始めておられるお店を探し、買い物をさせていただいて応援しよう!とあちらこちら車で走り回りました。


仙台名物“牛タン”もいただきましたよ(^0^)

 今回紹介したいお店は、エンドー餅店です。

づんだ餅で有名な遠藤餅店でーす^^

 仙台名物のづんだ餅とは、塩ゆでした枝豆をすりつぶし、砂糖を加え、餅とからめたものです。


出来たてのづんだ餅をいただきました^^お店の奥で作っておられます。

 づんだ餅の写真を撮るのを忘れたのですが、上の写真のショーケースの中で、さわやかな緑色のものがづんだ餅です。左下の5種類のだんごもとても美味しかったです(だんごの真ん中の緑色のも、づんだ餅ですよ)。


仙台四郎の図。

 お店の壁に掛っているふしぎな額の絵をよく見ると、にこやかに腕組みをする仙台四郎なる人物でした。おもちが出来上がるのを待っているあいだに、椅子に座っておられた常連客風のおばあちゃんに教えてもらったのですが、昔、仙台四郎が立ち寄ったお店は、とても繁盛したという話があり、仙台ではお店に仙台四郎の絵を飾るところが多いそうです。


仙台四郎のことを教えていただきました(~?~)

 でき上がったお餅をもってきて下さった方に「お店のご主人ですか?」と尋ねると、「いえいえ、主人はそこです」と仙台四郎のお話をして下さったおばあちゃんの方を指されました(*?*)

 穏やかで、飾ることのないご主人でした…^^

 エンドー餅店のHPはこちら→http://www.zundamochi.com/

震災(あのひ)をこえて⑥の3

 日常業務に忙殺され、ついつい更新が遅れております^^;

 物資を届けさせていただいた、西本願寺仙台別院です。

 東京を夜中の12時にレンタカーで出発、朝7時半ごろ仙台に到着いたしました。
 お伺いしたのが、震災で亡くなられた方々の49日法要の直後で、法要を勤めるために本堂から移動させた物資を元に戻したばかりのようでした。そのために、どこに何があるのか整理されていた物資の位置が変わって煩雑になっていたようです。
 私たち家族は、その本堂の整理のお手伝いをさせていただくことができました。

車に積みきれず、直接送った物資も無事に届いており、ホッとしました^^


重たいお米などの移動は、長男がやってくれました。お疲れ―!力持ち―!!


たくさんの物資が全国から届いております…(~*~)

 日ごろ、家でゴロゴロしている息子たちに、何かを感じてもらえたら?と、足手まといになって周りの方々に迷惑をかけるかも知れない恐れを顧みず、一緒に連れて行きました。 

 しかし、一番の足手まといは私でありました…(―・―;)

 物資の移動を始めてすぐ、腰が痛くなり、握力もなくなっていくのがわかりました。日ごろの運動不足を後悔しましたが、時すでに遅し、でありました…情けない(*0*;)
 子どもたちは実によく動いてくれました^0^/現地で何かを感じさせよう、なんて思っていましたが、すでに出発前にいろんな思いをもってくれていたようでした…。

 子どもたちも外に出ると、外での顔があるんだなぁと頼もしく感じました。


本堂の物資もきれいに整理できました(へ・へ)

 ちなみに、神戸に帰ってきた息子たちはまたゴロゴロしてます…。

 そういえば、カウンセラーの先生が「家でわがまましていても、外でそれなりにやっているなら、それでいいんですよ…きちっとしなければならない場所とホッとできる場所がちゃんとわかっている証拠ですから」と言っておられました。


地域のボランティアの方々と休憩中に記念写真^^お世話になりました―!



 このごろは、「外でいろいろあって子どもたちも大変なんやろなぁ…ゴロゴロできるわが家が休息の場所になっているのかな?」なんてちょっと思うようになり、ガミガミも少し減りました^^/

震災(あのひ)をこえて⑥の2

 前回、東日本に送らせていただいた生活物資を、水に限定して送らせていただいたことを書きましたが、東京からレンタカーを借りて直接届けた物資には、水以外にお経の本と法話(仏さまのお話)の冊子がありました。


 やはりページをめくったところにピーちゃんとパーちゃんの折り紙と言葉を添えて…

 折り紙を折る人、貼る人、お経の本とセットにする人、箱詰めの人、とそれぞれ分業し、

 お手伝いくださいました^0^/ お疲れさまでした-!!

 何で今頃、本なの?と思われるかもしれません…*・*;
 いや、思わないはずがありません。今は、今日一日をしのぐための救援物資だろ?と思われるのが普通だと思います…。ホントそうです。

 そういう私も16年前の阪神淡路大震災の直後に、そう思ったのです。

 阪神淡路大震災からまだ、そう日が経っていない頃に、和歌山から友人がお見舞いに来てくれました。友人は和歌山でも有田という所から来てくれたのです。そうです!みかんの美味しいあの有田です!
 私は、訪ねてきてくれたのがその友人だと確認できた瞬間、「あっ、ミカンがやってきた!」と思いました。そのころは、おにぎりやカップラーメンの日々で、ビタミン不足に陥っていたのでしょうか?友人の顔がミカンに見えたのです。

 ところが友人は小さなカバン1つでやって来ました…。

 そのころ訪ねてきてくださる方は、手ぶらで来る人はだれ一人いませんでした。何か生活の足しになる物資を手に、見舞ってくれていたのです。
 ですから、こちらも厚かましくなっていて、人が訪ねてきてくださったら、「何ぞええもん持ってきてくれたんとちゃうやろか?」と期待しておりました(汗)

 しかし、和歌山の友人のカバンには、とてもミカンが入っていそうにないのです。「和歌山やから、梅干しかな?」なんて、まだ厚かましいことを考えていたら、カバンのチャックが開きまして、そこから…な・なんと!本が出てきたのです(*?*)それも3冊…。

 「こ、こいつ!テレビ見とらへんのか?(もちろん私たち被災者は、そのころまだテレビは見られませんでしたが…)なんで今ごろ本やねん、お腹もいっぱいにならんし、体も暖まらへん、ホンマ空気読めんやつやなぁ~」

 と、がっかりしたことでありました…。もちろん、口では「ありがとう!遠いとこからよう来てくれたなぁ」とねぎらい、本山(西本願寺)で共に学んだ3ヶ月の日々を懐かしみ、思い出話に花をさかせたのでありましたが…。


 和歌山の友人の救援物資。広瀬杲(たかし)先生の歎異抄講話1巻目。

 夜になって、ろうそくに明かりを灯す時間となり、訪ねてくる人もなくなったころ、「なんで本やねん」と呟きながら手にとりました。
 すると、本の重みが妙に懐かしく、「そういえば、震災から今日まで、1日も仏教書を開くことがなかった…!」と、気づかされました。坊さんでありながら、仏教書を開くことさえ忘れた生活をしていたなぁ…と。その時、「なんで本やねん」と呟いた自分が、一瞬、恥ずかしくなりました。
 広瀬杲先生の『歎異抄講話』1巻~3巻の3冊。「3冊合計で約1万円。かなりのご馳走が食べられる金額やで~」という、心の底の本音を押さえつけて、ぺらぺらとページをめくっておりました…。すると、「南無阿弥陀仏とは?」という言葉に目が留まりました。

その当時、何度も読み返し、鉛筆で線を引いていました。 懐かしい~^^

 以下長くなりますが、広瀬先生の言葉です。「さて、南無阿弥陀仏とは何であろう、どういう言葉であろうと尋ねる。尋ねて行くと、やがて南無阿弥陀仏とは、人そのものを明らかにする一番的確な言葉であることがはっきりしてくる。そういう意味では南無阿弥陀仏とは人が人である道、人が人であることを確かめる言葉、人が人であることを教えてくれる言葉。それが南無阿弥陀仏という言葉ではないのか。しかもそれは、私という人間がいっているのではなくして、とにかく仏教が地上にしるされてから今日まで何千年という間、いろいろな人類が、いろいろな苦悩の中で、人間とは何かと問い続けてきたが、その問いの歴史の中を耐え抜いて、ついに南無阿弥陀仏がほかの言葉に変わらなかった。今日まで、いわば人間の苦悩と悩みのただ中で、試練に会いながら、ついに南無阿弥陀仏は南無阿弥陀仏以外の言葉にならなかったという、本当に稀有な言葉である。
 歴史の風雪に耐えて、人々が苦しみや悲しみ、いろいろな問題をかかえた中で、いったい人間とは何だろうかと、こう尋ねる、その問いが、南無阿弥陀仏によって答えられて来たあかしがある。とすると、南無阿弥陀仏が人間を明らかにしている言葉だということは、私がいうのではなくして歴史が証(あかし)していることではなかろうか。それを尋ねないのは、私達にとって一番大きな損をすることになるのではなかろうか…」


長文の引用になりましたので、ここらでちょっと一服(~・~)

 人が苦悩や悲しみをかかえて生きている中で、南無阿弥陀仏を尋ねてみると、それは、人が人であることを明らかにしてくれる道だとおっしゃるのです…。
 私は、震災からこの言葉に出会うまでの何日かの間、人間であっただろうか?と振り返ってみました。すると、悲しみのあまり、怒りや腹立ち、ねたみ、人に当たり、傷つけあい暮らしてきたことばかりが思い起こされました…。
 「とても人間とは思えない…」と、初めは思いましたが、「いや、そうではなく、震災によってあらわれたこの姿こそが、人間であった、ごまかすことのできない私自身の本当の姿であった…。そのことを今、南無阿弥陀仏が確かめさせてくれていたのだ…」と、思いました。

 友人が届けてくれた書物の言葉に、自分自身が鏡に映し出されているように感じました。実に恥ずかしい姿を映し出されているにもかかわらず、そこには、そんな私だからこそ、「ほってはおけない」という阿弥陀さまの手に抱かれているような心地よさも同時にありました…。


ちょっと読みづらい話になりましたので、もう一服。今度はお煎茶を…(‐・‐);

 昼間は、「なんで本やねん」と思っておりましたが、そのころには、「ええ友達をもったなぁ…いい本を持ってきてくれたなぁ…」と、勝手なことですが、すっかり変わっていました…^^;

 16年たった今でも、この本は私の宝物であり、一番の救援物資だと思っています。


豊島先生は、和歌山の友人と共に、本山で3ヶ月お世話になった先生です…。

 そんな経験があるものですから、被災地の皆さまにも、復興の力仕事の後や就寝の前など、ホッと一息をつく、ご無理のない時間に手に取っていただけたらなぁ…と願っております。

くれぐれもご無理のないように…。

震災(あのひ)をこえて⑥の1

 4月24日、拙寺にたくさんの方々がお手伝いに来てくださり、東日本に届ける物資を準備してくださった。

 60人以上の方がお手伝いいただきました^0^ありがとうございました!

 ご門徒さん、保育園の親御さんや卒園生、小学校のPTAのお母さんやお父さん、中にはお顔が判らず、どちらから来てくださったかわからないままのお方もあり、失礼もあったかと存じますが、この場をお借りいたしまして御礼申し上げます。

 あまりいろんな種類のものを送ると、現地で仕分けをする人手が必要になり、かえってご迷惑をかけるようなことがあるというお話も聞き、このたびはペットボトルの水に限定してご協力をお願いいたしました。
 普段、ペットボトルの水を買うことがないのでわかりませんでしたが、買占めを避けるために、神戸でもなかなか一箱売ってもらうのは難しいようでした。一人当たり1~3本が限度というところが多かったようで、それでも最終的に230本ご寄付いただきました^^


 ホントにたくさんの水をありがとうございました^0^/


 男性陣が重量のあるペットボトルにお見舞いの張り紙や箱詰めをしてくれました^^


 お見舞いの張り紙。


 開けばピーちゃんとパーちゃんの折り紙。すべてのボトルに張ってくださいました。

 当初は、東京の友人(なばちゃんアリガト―^^)の勤めるお寺に物資をすべて送り、レンタカーを借りて、仙台のボランティア活動の拠点に運ぶ予定でしたが、うれしい誤算でたくさんのお水が集まりましたので、三分の二は直接、現地に送らせていただきました。


 一つひとつ、丁寧に貼ってくださいました。前田さん(87歳、お元気です)アリガト-!

 お水をいただいてくださる方々には、かえって煩わしくなることをしてるかも・。・;?という危惧もあるのですが、一つひとつのペットボトルに、体が一つで頭が二つという、互いに協力しなければ生きていけない鳥である共命之鳥(ぐみょうしちょう・わが保育園では“ピーちゃんとパーちゃん”の愛称で親しまれております)の折り紙を貼らせていただいております。
 これは、阪神淡路大震災の時、本当に多くの方々にわが事のように助けていただいたことに対する感謝と、東日本と神戸も命を共にしたお互いであるという願いを表現したいと思って貼らせていただきました。

 思いをくみ取っていただき、願いが届くようなことがあれば幸いです…。

震災(あのひ)をこえて⑤の4

 このHPは、私がパソコンが苦手なため、原稿を書いて写真を添付し、園やお寺でふだんからお世話になっている業者さんにメールで記事を送り、アップしていただいております。

 そんなこともあり、原稿を書いてから記事がアップされるまでに少し時間差があり、東日本大震災後に、前回の「震災(あのひ)をこえて⑤の3」の記事がアップされました。

 「震災(あのひ)をこえて」は、ただでさえ“震災”という重い記事ですので、なるべく読んでくださる方々が重々しく感じないように、軽めの文章に加え、少しウケを狙うような記事にしているものが多いのです。
ですから前回の記事は、読まれる方によっては、不快に感じられたのではないかと心配しております。もしそのようなことがありましたならば、お許しください…。

今回の地震は、大きな津波というものが発生いたしました。われわれの時は、倒壊した家屋をめざして救出活動ができましたが、建物が流されてしまうとどこをどうすればよいのか?救助の方々の焦りやご苦労を感じることであります。

ひとりでも多くの方々が、救助されることを願い、私自身にどんなお手伝いがさせていただけるのかを、今、考えております…。

震災(あのひ)をこえて⑤の3

 1月17日の毎日新聞の夕刊にイベントの記事が掲載されました…。


大きく載せていただきました^^記事は毎日新聞のHPで読んでいただけます。

 記事は大きく掲載していただきました^0^  私より、参加してくださったお母さん(べっぴんさんでしょ~^^)の方が写真が大きいです(やっぱりそっちか…-・-)。

 そりゃ絵になりますよね―。わたしも散髪しとけばよかった(+・+;)ボサボサ頭…。

 毎日新聞といえば、年末に整理をしておりましたら、震災当時の毎日新聞が出て来ました。危うく単なる古新聞の山と思って捨てるところでした^^;
 1月15日から27日までの新聞でした…。一部を紹介いたします。


16日、神戸製鋼7連覇!平尾さんや大八木さん大活躍!同志社時代からのファンでした…^^

17日、当日ですが、震災のしの字もないです。情報のない神戸では、世界が壊れたのかと…。

18日、当時は、私たちの手元には、もちろん新聞は届かなかったです。

19日

20日

21日、園の職員の中には、西宮から自転車で通った保育士さんもいました。ご苦労さんでした。

22日、家の近所でも、4日目に救出された方がおられました…。

23日、私のところでは、電気はまだまだ先のことでした…。

24日、とうとう死者が、5000人を超えました。最終的には、6434人だったでしょうか…?

 おそらく、震災から大分経ってからいただいた新聞だと思うのです。
 この時点でわが地域は、ガレキの撤去もままならず、電気・ガス・水道は復旧せず、道という道が、倒壊家屋でふさがり車も入れず、という状態で、何よりも、神戸が壊れた?日本全体が?それとも世界中が…?ということすら分からずに、ただただ次の瞬間にもっと大きな何かが起こるんだろうか?とおびえていたことを思い出します…。

 ちなみに、震災後初めて風呂に入れたのは、2週間後のことでした。自衛隊のみなさん、ありがとうございました^0^/

 2週間も同じパンツをはいていたのは、その時限りです…(-・-)

震災(あのひ)をこえて⑤の2

 いよいよ午前5時46分を迎え、みなさんと、黙とう・合掌をいたしました…。


合掌の姿は、みんな美しいです…。


普段から身についている保育士さんの合掌は、美しいうえに上手です(^0^)

みんなみんな美しいです…(~:~)

 手を合わせると、自然に心が穏やかになる気がいたします…。
 逆に合掌をしながらのケンカは、なかなかできないです。悟りを開かないと出来ないかも(笑)

 ちょっと話がそれるようですが…。

 お釈迦さまは、教えを守って生活する上で、必要最低限のものしか所持されなかったとお聞きいたします。衣も一枚の布で作らずに、あまり物の端切れをつなぎ合わせて作られたそうです…。

 なのに仏教は後に、仏教文化・仏教美術という言葉やジャンルができるほど、寺院建築や絵画・仏像・仏具・袈裟などなど、時に壮大で、時に緻密な芸術的価値の高いものが作られていくのです。(断っておきますが、私は仏教美術に興味がありますし、いくつかの仏教国を訪ね、それを満喫しております…)

 「なんでこんな派手な衣着るねん…(-・-)」と、若いころは、お葬式などでキンキラキンの衣を着けるのに、ものすごい抵抗がありました。

 お釈迦さまの生きざまと芸術的価値…どこに接点があるのだろう…?


比丘(びく)像です(~*~)わずか4センチほどです。

 私のヘタな写真では、なかなかこの美しさが伝わらないかもしれませんが、4センチほどの比丘(お釈迦さまを慕う弟子)像が、合掌する姿の中に、その答えを見るような気がするのです。


ちょっと下からのアングルですと、優しいお顔をしているのが分かります(^-^)

 お悟りを開かれたお釈迦さまの生きざまの素晴らしさ、清らかな生活。その教えの崇高さを慕う弟子たちの合掌の姿の美しさ…。

 道を求める者の美しさを、何とか表現したい!!その多種・多様な表現が、芸術・美術・文化という形で、後の世に認識されていったということではないでしょうか…?


失礼かと思いましたが、大きさ比較です。ストラップは合掌わらじです(*・*)

 震災で亡くなられた方々を思いながら、合掌されるみなさんの姿が美しいのも、なるほどと、うなずけることです…。

震災(あのひ)をこえて⑤の1

 1月17日の早朝に、「5時46分を一緒に迎えませんか?」という集いを行いました…。
***みんなでお花を捧げました***

始発では間に合わないと、泊まり込みで参加してくれた保育士さんたち。感謝・感謝!!

 お花をささげた後、5時46分までの間に、それぞれ持参のお母さんの写真や、思い出の写真をきれいにスクラップブッキングしました(^-^)

スクラップブッキングは、PTA仲間の上畑さんが教えてくれました。(写真中央)

 上畑さんが、すごくきれいで可愛らしい装飾紙をたくさん用意してくださり、みんなそれぞれ、あれがいいこれがいいと、思い出の写真を飾りつけました…。

三男の表紙デザインです(*-*)

次男は大好きなおばあちゃんとの写真を選びました(~・~)

左が私、右は長男です。長男のは、妙に落ち着いてませんか???

私の選んだ写真は、生れたばかりの三男を長男が抱きしめているところです(^0^)
今はケンカばかりの二人ですが、こんな時期もあったんです…。仲よくネ!!

 私のスクラップブッキングは、柄の上に柄ですか~(×・×)センス悪~(6・6)なんて言われながらも、自分では気に入ってます(今どきっぽいことないですか~?)

 Wishingという英語を表紙に張りつけたんですが、意味は「願う」ということらしいです。中の写真は、長男が生まれたばかりの三男を抱きしめているのを選んだのですが、実際、今はケンカばかりしています。一過性のものと思いますし、兄弟げんかも大事だと聞くのですが、震災で姉を、2年前には弟を亡くした私は、どうしても気になるのです。

 前の日に普通に言葉を交わした姉だったのに…。
 前の日に電話をかけようと、いったんは携帯を手にしながら、「急ぎやないから、いつでもええわ」とポケットにしまって、結局言葉を交わせなかった弟…。

そんな体験からつい、明日どうなるか分からないお互いだから…今仲よくネ!!と、思ってしまいます…。

震災(あのひ)をこえて④の2

 十年一昔(じゅうねんひとむかし)と言われるが、本当にそうだなと思う…。


これが10年前の長男(5歳です)

10年経てば…      ↓↓↓↓↓ 


ただ今15歳。自坊の親鸞聖人750回大遠忌にお参りしてくれました。

 見違えることである…。
 震災の時、お腹の中にいた長男が、今年は受験生である。本当にあっという間のことであった…。
 震災直後は、かなりの高さから落ちたので、長男も流産の危険があった。大事をとって、妻だけは私の高校の先輩宅に避難させてもらった。
 その後、お腹も安定し、無事に出産となった。

 出産にも立ち会ったが、当然、何もできなかった。今までに、これほどの無力感を感じたことはなかった…。同時に、お母さんの偉大さを見せつけられた。

 よくぞ助かってくれた!よくぞ生れてきてくれた…!!
 そんな思いを込めて、優と名づけた。優秀の優でも優しいの優でもない。優曇華(うどんげ)の優である。
 優曇華とはよく、お経の中や親鸞さまのお言葉に出てくる花の名前である。伝説として、芽が出るまでに千年、つぼみになるまでにまた千年、花が咲くまでにもう千年、三千年に一度しか咲かない花として登場する。そこから、人として生まれることはめったにない、また仮に人として生まれても、仏さまの教えに出あうことはさらにめったにないことであり、それは、三千年に一度しか咲かない優曇華が咲くのに出あうほど、珍しく尊いことである…。と言われるのである。

 震災を乗り越えて、誕生した長男を見た時、迷わず浮かんだ名前であった…。

震災(あのひ)をこえて④の1

息子(長男)が高校受験である…。

 しかし、我が家にはそんな空気があまりなく、息子も呑気なものである。
 今年の6月には、もう16歳になる。震災の時、妻のお腹の中で4ケ月の胎児だったことを思うと、本当にあっという間の16年だった…。

親戚のお寺の法要にて。黒い衣の大きい方が長男です(~:~)


 妻のお腹の中にいた長男も、ともにガレキの下敷きとなった。2階から庭まで、叩きつけられるように落下し、大屋根に押しつぶされそうになった中で、九死に一生、助かってくれた。
 しかし、生れた日が6月30日。この日は、ともに下敷きとなって亡くなった6ヶ月の姪が、もし生きていれば1歳の誕生日となる前の日であった…。

 一番気持が複雑だったのが、母であったよう思う。初孫の死と、初めての内孫の誕生が重なって感じられてしまうのである。内孫が成長していく姿を悦びながら、「あの子の時はこうだった、ああだった」と言わずにおれないのである。妻は何も言わないが、彼女も気持ちは複雑だっただろうなと察する…。

 息子が6ヶ月を過ぎたころ、いつの間にか母も、「ああだった、こうだった」と言わなくなっていた。いや、言いたくても言えなくなっていたのだ。


 息子が、姪の生きた6ヶ月という時間を追い越したことによって、母は二人の成長を比較することも出来なくなってしまったのである…。

震災(あのひ)をこえて③の2

 弟を亡くしてこの2年間、ずっと気になっていたことがあった…。

 それは、弟が残した二人の幼子のことである。義妹がしっかり者で、ホントに二人を明るく、健やかに育てていてくれている。

しかし、この2年間、小さな姪と甥は、おじである私の前で、一言もお父さんのことを話さないのである。何事もなかったように、いつも元気に走り回っている姿とのギャップが、とても気になっていた。

「大きなキズとなって話せないのだろうか…?」私からも、もちろん、弟のことは話題にはできない。満面の笑顔が、逆に不憫に思えた。

3回忌の法事の後、思い切って二人のおじいちゃんである、義妹の父に尋ねてみた…。

するとおじいちゃんは、笑顔で「心配いりませんよ!二人は一日に何度もお仏壇に手を合わせて、お父さんはマンマンちゃん(仏さまのことです)になって、いつも見護っていてくれていると、話してますよ…」とお話しくださった。

義妹だけでなく、おじいちゃんも(もちろんおばあちゃんも)しっかり二人を育ててくれていたんだなぁ、と安心したことである。

困難を乗り越えて伸びていこうとする、本来、子どもに備わっている力をそこに感じ、それを伸ばそうと、サポートする大人たちがそばにいることが、とてもうれしかった。


しかし、遠くにいて何もしてやれない私は、自らのふがいなさを思うと同時に、そのふがいない神戸のおじちゃんを悲しませないように、小さな二人が私の前で、お父さんの話題を控えていたのかもしれない!と、その時ふと思った…。

震災(あのひ)をこえて③の1

 震災の時は、京都もかなり揺れたようである…。


時期がずれましたが、今年の京都の紅葉です。

 今年は、弟の3回忌の年でもあった。生きていれば38歳、突然のことであった…。
 弟は、京都で震災を経験した。大学4回生で、その日から試験だったらしく、徹夜で勉強し、そのままコタツで寝てしまっていたらしい。
 テレビが落ちてきて、びっくりして目が覚めたそうで、その後のテレビの報道で、いてもたっても居られなくなり、バイクに飛び乗ったようである。
 京都から大阪、そして兵庫県に入り、神戸に近づくほど、街の様子がガレキの山と変化していくさまに、涙が止まらなかった、と、後々語っていたのを思い出す…。それは、緑から黄色に、そして紅葉した後、枯葉となって落ちていくモミジのような変化であったのかもしれない。

 亡くなった姉と弟は13歳違いで、母親の代わりに姉が授業参観に行くほど可愛がっていた。その姉を失い、弟は悲しみの中で自分自身と向き合い、悩んだ末に、僧侶として生きていくことを決意した…。



 その弟を失った私は、まだ、そのことを引きずったまま、漂っている…。

震災(あのひ)をこえて②

 先日、昔の書類を整理していたら、震災の翌年、30歳の時に書いた文章が出てきた。

 当時、所属していた兵庫教区青年僧侶の会の会報の記事である。15年も前の文章で拙いことであるが、今では書くことが出来ない臨場感が、そこには漂っている…。

背中の重み

 震災後、PTSD(心的外傷後ストレス障害)という言葉をよく耳にする。災害などで死の恐怖に直面したことで起こるこの症状が、他人事ではなく、ガレキの下敷きになった自分の身の上に感じられる。

 暗闇が怖い。眠れない。気力がない。物音が気になる。そして何よりも、土の匂いが嫌いになった…。

 1月17日午前5時46分、大きな音とともに家屋が崩れ去った後、一切の音が聞こえなくなった。鼓膜が破れたのかと思うほどの静けさだった。

“大変なことが起こっている”

 しかし、かなりの高さから落ちたので、まさか地震とは思えなかったし、なぜ自分がガレキの下敷きになっているのかも分からなかった。

 しばらくして、妻の無事を確認したが、お腹の子が心配でならなかった。発声が困難な父は、「ドンドン」と何かをたたき続け、居場所を知らせているが、何かに挟まっているのか苦しそうだ。母は姉とその娘の名を必死に呼び続けていた。それが声の主の無事と、返事のないふたりの死を同時に知らせることになった。

”やはり大変なことが起こっている“

 その時、死を覚悟させられた。痛みや恐怖は不思議なほど感じなかった。いや、感じる間もなかったのだろう。(その後、助かったと思った瞬間から、痛みと恐怖が襲ってきた)しかし、間違いなくこれで自分は死んでいくのだと思っていた。

 そう思わせたのは、体全体を押しつぶそうとしているガレキの重さだった。痛みや怖さではなく、『人間の力ではどうすることも出来ない重さ』に死を覚悟させられたのであった。


地震で倒壊した我が家

 約1時間後、たまたまガレキから抜け出すことが出来た。一瞬の出来事の中で、生と死は本当にたまたまのことでしかなかった…。

そんな中で今思うのは、『人間の力ではどうすることも出来ない重さ』とは、倒壊した家屋のガレキのことだけではない、ということである。

お釈迦さまがお示しくださった、老・病・死の問題こそ、『人間の力ではどうすることも出来ない重さ』ではなかったか。まさに万人が避けて通ることのできない、身の事実である。例えて言えば、『老・病・死のガレキ』の中に身を置きながら、その重さを重さと感じることのない日暮しに埋没していたのではないだろうか…?

”まだ大変な問題が残っている”

震災のガレキは、重さを直に感じることが出来たので、「このままでは危ない!」と察知することが出来たが、『老・病・死のガレキ』は、厄介なことに、なかなか重さを感じることが出来ない。日々、刻々と老いてはいるが、実際は、鏡を見ても昨日と変わりなく見える。いくらエステティックサロンに通っても、本質的には老いを止めることはできない。病は自覚症状がなかったり、突然やって来たりする。不思議なことに、医学が発達すればするほど、それに挑戦してくるかのように、エイズやサーズ・新型のインフルエンザなど、次々と新しい病やウイルスが身を脅かす…。危機感を感じさせず、足音も立てずにやって来るので、われわれはその重さを感じることなく『老・病・死のガレキ』の中で、呑気に過ごしていたのである。 お釈迦さまの教えは、そんな私に『老・病・死のガレキ』の重さを知らせて下さっていたのである。いつの日か必ず死すべきこの身は、今、何を求め、何を解決しなければならないのか…? 今でもあの重さはしっかりと背中に残り、人生における一大事の解決を促して下さっている。

震災(あのひ)をこえて①

 年が明けると、阪神淡路大震災から丸々16年となり、その震災で亡くなられた方の17回忌を迎えることになる。

 『震災から何年…?』この表現は、被災地で今も暮らす私たちの独特の表現かもしれない。もちろん無意識のうちに使っているのだが、すっかり定着した言葉である。

 今も毎日、泣いて暮らしているわけではない。3人の子宝に恵まれて、仕事も趣味も充実している。むしろ、アホなことばっかり言って、息子たちに「お父ちゃん、恥ずかしいから参観日に来て、いらんことせんとって!」と怒られている日々である。

 しかし、どうしてか、『震災から何年…?』という年の数え方しかできなくなってしまった。震災前のことはあまり思い出せない。あそこで何かが大きく途絶えてしまったのか?しかし、夢に見る我が家は、必ず、生れてから29年間過ごした震災で全壊した我が家のほうである。復興して9年経つが、今の我が家は一度も夢に出てこない。なぜだろう?

 

 このごろは、震災後のことも忘れてしまっていることが多い。忘れることで、前を向いて生きていられるのかもしれない…。

 

 私も姉とその娘である姪の17回忌を迎える。これを機に、震災からの16年を振り返り、自分なりに整理をし、一区切りをつけてみたいという思いもあり、このページを作ってみた。お付き合いをいただけたら幸いである。

 

 


去年の暮れに、やっと、仮設の物置などを撤去し、庭の一部をやり直したところ。


空襲で唯一、焼け残った山門が建っていたが、震災で倒壊し、防火地域であることから再び山門を建てることもかなわず、奥まったところに数寄屋風の門を建てた。